ひよこタジの自然な吹き出し

生活がおぼつかない人間の日記です。

自分はどんな属性なのか断言できない-2022/1/16

生活がグチャグチャになっている

最近は生活がかなり困難を極めている。何かをキリのいいところまで行うことができなくなってしまった。まず、風呂に入れない。風呂に入れても髪が乾かせない。髪が乾かせても寝る前に歯が磨けない。食事が作れても食器が片付けられない。脱いだ服を洗濯機に入れられない。洗濯して干すところまではできても、干した服を畳めない。そんな感じで物事の段階を途中までしか出来ない状態だ。

今までにこうなってしまっていたのは、大体ホルモンバランスの影響かなにかで心身に不調が出ている時期だった。だが今回はそういった分かりやすい原因に思い当たらない。元々こういった日常の物事を行うのがかなり苦手だが、工夫で乗り切ったりコントロールしたりが全く出来ないのはめったに無い。

冬だからとか、コロナの流行状況がひどくなってきているとか、そういったものが気分的に落ち込ませているのはあると思うけど、それにしてもかなりしんどい。今日も片付けを部屋の3分の2までは行えたけど、残り3分の1は手つかずだ。いつもは1日あれば片付けはできていたのに。

最近、仕事をしていなくて予定もないときはずっと布団にくるまっている。コロナで外出を控えているし、家事も途中で放棄してしまうので特に土日はずっとそうだ。

自分はどういう属性として生きているか

さっきサブスクで映画を見ていたとき、その作品の感想をTwitterで検索したところ*1、女性の描き方について叩かれていたのを見た。
見たのは15年ほど前の娯楽映画で、原作はもっともっと古い作品である。その意見に対しての反対意見はない。古い作品であるから現代の作品と比較すると問題がある描き方も多い。(古い作品だからという理由以外にも何かそうさせている理由はあるだろうけど)

私は、こういったネットの感想を見ていて「私はどんな属性の人間として生きているのか」ということをいつも考える。私は会社員の、独身の女性である。しかしそれらを表明し、胸を張って意見を表明することができない。もちろん何か意見を表明するときに必ずしも属性をはっきりさせる必要はないし、胸を張っていなければいけないこともないと思う。しかし私は一体どんな人間として何を発言したいのかとふと立ち止まってしまう。

 

私が最近困っていることは、最初に書いたとおり生活に必要なことが途中までしかできないことだ。これを発達障害傾向で……とかADHD傾向が……とか冬季うつだからなんです……と言っても構わないのだが、何かそう表明して発言することに不安がある。個人として困っているのは確かだけど、困っている理由が「○○だから」という何か属性に集約されてしまうことがとても不安だ。「発達障害傾向があって困っているんです」「一人暮らしで大変なんです」と言うことができない。もちろんそういった属性が原因の一つだと思うけど、それが全てではないと思うからだ。多分私と全く同じ属性を持つ人で、同じようなことで困っていても、その内容は違っているんじゃないかと思う。
このブログも最初は「ADHDのOL日常ブログ」みたいなタイトルにしようか少し悩んだ。多分そのほうが圧倒的に似た属性の人に見てもらいやすいだろうし……。でもその属性を背負う自信がなく、記事にタグを付けたり自己紹介でちょろっと書いたりする程度しかできない。

 

作品の感想などもそうで、「酷い描写だ」とか「正しい描き方だ」と批評することができない。自分は何として生きているのかどうしても考える。自分がそう思うのが「○○(属性)だから」なのか、そう思うと自信がない。属性を自分のものとして受け入れ意見することもできるけど、何か断言できなさがある。酷い・正しいと思ったその感情が属性に起因するものなのか、自分自身の体験に起因するものなのか、社会の中で学んだ倫理観によるものなのかが分からない。別にそれが自分の中で揺らいでいても発言していいとは思うのだが、何かを批評的に見る場合にそれでいいのかと踏みとどまってしまう。「好き」「嫌い」くらいだったら言いやすいんだけど、何かを評価するにあたってそのへんハッキリしてから発言したいと思ってしまう。

倫理的に問題がある描写がある作品が2つあったとして、面白いと思った作品には「こういう描写こそ人間味だよね」とか言うかもしれないし、つまらないと思った作品には「こんな描写が入るなんて本当に最低!」と言うかもしれない。
作品の感想だけではなく、現実だってそうだ。嫌なことを言われたとして、仲のいい友達だったら反論したり「まあ友達だしなあ」で許せても、性格の合わない同僚から言われたら「やっぱアイツは最低」と無言で距離を置いたり愚痴ったりするかもしれない。そんな感じなので自分自体が信用できないし、何か属性を背負うのは難しいと感じている。

 

前回の記事にも書いたとおり、私は結構直感的に「うわっ」と思ったことが尾を引くことがある。どうしてもその「うわっ」に対して何か理由があるはずだとか原因を探ろうとして、生理的な嫌悪感だったり単純に合わないとかそういうものに理由付けをしたくなってしまう。それが私の場合は属性だったりして、「私が○○だからこの部分が嫌なんだ」と考えることもあるけど、根底に「合わない」「生理的に無理」があった場合って論理的にそれを説明できるかというと分からない。もちろん「合わない」ということに隠れた理由がある場合もあるけど、結構好みってあったりしませんか?これまた自信はないですが……。

 

私の生活がメチャクチャなのは発達障害の傾向があるから…かもしれないし、そうじゃないかもしれない。なのでハッキリ属性を言う必要もない。
私がある映画を見てスルーできていた部分(問題点)を他人が批判していて、その人が私と同じ属性だったとしても、別にその感じ方の違い自体は問題ではない(他人なので)。
でもどこか属性で連帯したい、同じように困って同じように喜びたいという気持ちがどこかにあるのかもしれない。多分本気で属性なんてどうでもいい!と思えていたら気にもしないだろうな。

正直「分かります!私も○○(属性)で、同じように困ってるんです!」と言われたら凄く嬉しいと思うし……ただ私が属性をハッキリ言わないせいで共感してもらえることも少ない。たまたま何かで共感しあえたらそれはとても嬉しいなと思う。

 

*1:以前の記事に書いた通り、Twitterから離れようとしているのにわざわざ検索したのは私のミスです